バブル時代の思い出 (40代・女性)
私がちょうど大学を卒業して、就職活動をしていた時期がまさにバブル時代でした。
今では考えにくいですが、どの会社でも入れそうな雰囲気の社会でした。
特に資格もなく、何となく大学に入ったような自分でも、うちの会社に来て欲しいといわれ、内定が5社ほど出て迷ったくらいです。
今振り返ると社会全体が舞い上がっていたような、はじけていた時代でした。
きっと今の時代だったら、私なんかは内定が出るまでとても苦労したと思います。
会社に入ってからも、ちょっとの所用で出かけるときもタクシーを使わせてもらっていました。
例えば、社内でのイベントなどで社員が移動するときも、今では電車などを乗り継いで行くのでしょうが、バブル時代のときはタクシーに乗っていました。
良かったと思う反面、その経験をしてしまっているので、その時の贅沢さと比べてしまうクセがあるので
困っています。
ディスコでリアル「サタデーナイトフィーバー」(40代・女性)
今の子が「クラブ」に行くという感覚が私の時代は「ディスコ」でした。
バブルの頃のイメージにも「扇子とお立ち台」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
ひさびさにこの言葉使ってみましたが懐かしいですね笑 でも私の青春時代の象徴でした。
「ワンレン・ボディコン」は定番スタイルでした。
ラガーマンかと思うような肩パットの入った洋服も当時のトレンドでしたから。
私は地方出身で、当時の私の街では数えるほどのスペースも狭いお店しかなく、でも中でも人気のお店は恒例のチークタイムがちょっと長め。そこに土曜日になると繰り出し、オールナイトしていました。
知らない男性から声をかけられ、寄り添ってチークを踊る。選抜からもれてしまった一緒に行った友人に申し訳ないような、でも、なんか女性としてうれしい気持ちもあったり、その逆もあってがっかりしたり、、、
もうワンレンなど主婦には邪魔なヘアスタイルですし、ぴったりした洋服など着れるわけがありませんが、自然についた脂肪の肩パットを見ながら、当時の余韻に浸ることにします。
タクシーがひどかった(60代・男性)
とにかくタクシーで不快な思いをしました。
繁華街でもないのにタクシー乗り場は大行列。
運転手はやたら横柄で「乗せてやっている」という意識がありあり。
返事をしないぐらいならまだしも、距離が近かったりすると露骨に舌打ち。
もちろんタメ口で客の方がペコペコ。
どっちが客か分かりませんがそれが当たり前でした。
油断しているととんでもない方向に遠回りしていることも普通にありました。
小銭が足りなくて5円玉を出したら受取拒否されたこともあります。
それでもちょっとしたことで、すぐタクシーを利用していたのだから、そういう時代だったんですね。
だけど嫌な思いはトラウマになって、今でもよほどのことがない限り、タクシーには絶対乗りません。
ちょっとバブルを感じる入社式の思い出(40代・女性)
それは新入社員として入社式に出席した時のことです。
当時は今のようにみんな黒いスーツを着ているわけではなく、思い思いの色や形のスーツで出席していました。
いい意味で言えば、個性的ですね。
その中でもひときわ目立つ女性がいました。
彼女は体のラインがバッチリわかるボディコンスーツに身を固め、ピンヒールを履いていました。
見ているこちらとしては少々危なっかしいと思いましたが。
入社式が終わり、会場を変えての昼食会が執り行われます。
会場までは少し歩かないといけませんでした。
そこで、彼女はヒールを側溝の蓋にひっかけてしまい、見事なまでに転んでしまいました。
足が傷だらけになりながらも、彼女は何事もなかったように歩き始めました。
ある種のプロ根性を見たかのようでした。
給料がたくさんもらえました(40代・女性)
まさにバブル全盛期に地元では名門と言われた短大を出て、大手都市銀行の100パーセント子会社であるショッピングクレジットの会社に就職しました。
1年目の冬のボーナスは、短大卒で36万円、高卒女子で30万円ほどでした。
3年目には、ボーナスだけで年間100万円を超えました。
私は、3年3か月で寿退社し、当時いわゆる「三高」(高学歴、高身長、高収入)をまあまあ満たしているかな?という夫と結婚しました。
当時銀行の定期預金の利率は7%でしたので、100万円が1年後には、107万円になりました。
ですので、そこそこお洒落して、友人とも旅行に行き、親孝行しても、3年ちょっとで500万近く貯めました。
私の場合は、結婚資金を親に頼らず自分で出し、残った貯金も少しでしたが、実家天国の友人たちは、この頃の貯金を金利で倍にし、旦那さんに内緒のへそくりにしています。
今のアラフィフ主婦は、結構お金持ってると思います。
バブル時代のクラブ事情(30代・女性)
バブル時代全盛期の頃、歌舞伎町のクラブに入り浸っていました。
当時から男性客のみの来店をお断りする店が多かったので、店の前でたむろっている男性に声をかけ、一緒に店に入り、お酒をごちそうになったりしていました。
当時は羽振りがよい男性が多かったので、お酒代・食事代だけでなく、お小遣いをくれる人も多かったですよ。
なので、1年くらいは自分のお金でご飯を食べたことはありませんでした。
バブル時代といっても、私はそこまでお給料がよくなかったので、すごく助かっていましたね。
私の友達も同じような生活をしていました。
中にはお金持ちの男性を捕まえて結婚した人もいます。
私のような生活をする女性は多かったみたいで、クラブの前はいつも若い男女でにぎわっていました。
あの頃(バブル期)は何もかもが羽振りが良かったですよね(60代・女性)
私がバブル期で思い出すのは、仕事後のアフター5ですね。
ほぼ毎週のように週末は繁華街へ繰り出し、会社のお金で何も気にせずに飲めや歌えやを繰り返していましたね。
私はそんなにお酒は飲まないのですが、それでも高級と言われるようなお酒をバンバン注文していたことは覚えています。
また帰りに関しても、基本的にはタクシー券が配布されていました。
なので電車に乗るということはあまりありませんでしたし、それ故に帰りの時間も気にせずに遊ぶことが出来ていましたね。
賞与の時期も本当にワクワクしたもので、当時は現金を封筒に入れて渡されていました。
そのため、誰がどのくらい貰ったのかが目視で分かるんですよね。
営業社員なんかは、インセンティブも含めてかなりの金額を貰っていたようで、封筒がはち切れんばかりになって、縦に置いて立たせていましたからね。
札束が立つのですから、その金額は推して知るべしでしょう。
うん、本当にあの頃は良かったですよ。今は……。
バブルなんて実感したことはほとんどありませんでした(50代・男性)
いわゆるバブルと言われた時代真っ盛りのころ、私はあるコンピューター関連の会社に就職しました。
人手不足だったのか同期は数百人という、超売り手市場だったと今にして思います。
しかし、世の中の狂乱振りとは裏腹に、その数年後当社を含め電気、コンピューター関連の会社は軒並み業績が悪化して赤字にあえいでいました。
とくに給与面が直撃を受け、仕事は山ほどあるのに残業代はカットされたり、ボーナスは出るとか出ないとか噂で持ちきりになってしまうという状況でした。
しかし、週末に街に飛び出せば周りはキラキラと光り輝いていてとても楽しい雰囲気に包まれた記憶があります。
一晩中ディスコで踊り、始発電車で帰る、そんな日々を過ごしていました。
大阪時代のバブル生活(50代・男性)
バブルというほどの派手さはありませんですが、そのバブル期に私は大阪で独身生活をしていました。
場所は船場にありましたが、仕事が終わると、毎日仕事が終わると違う女の子と、道頓堀にある当時ではまだ珍しかった20階建てのビルの最上階にあるレストランバーに行って食事をし、心斎橋に戻っておしゃれなバーでお酒を飲み、自宅のある新大阪までタクシーで帰っていました。
1日平均で3万円を、毎日のように使っていましたので、当然給料では足りなかったのですが、賞与が業績連動型で、20代の私には信じられないくらい出ていましたので、それで充当していました。
当時付き合っていた(毎日、日替わりだった)女のことたちとは結局結婚することもなく、バブル崩壊と同時に別れました。
私がちょうど大学を卒業して、就職活動をしていた時期がまさにバブル時代でした。
今では考えにくいですが、どの会社でも入れそうな雰囲気の社会でした。
特に資格もなく、何となく大学に入ったような自分でも、うちの会社に来て欲しいといわれ、内定が5社ほど出て迷ったくらいです。
今振り返ると社会全体が舞い上がっていたような、はじけていた時代でした。
きっと今の時代だったら、私なんかは内定が出るまでとても苦労したと思います。
会社に入ってからも、ちょっとの所用で出かけるときもタクシーを使わせてもらっていました。
例えば、社内でのイベントなどで社員が移動するときも、今では電車などを乗り継いで行くのでしょうが、バブル時代のときはタクシーに乗っていました。
良かったと思う反面、その経験をしてしまっているので、その時の贅沢さと比べてしまうクセがあるので
困っています。
ディスコでリアル「サタデーナイトフィーバー」(40代・女性)
今の子が「クラブ」に行くという感覚が私の時代は「ディスコ」でした。
バブルの頃のイメージにも「扇子とお立ち台」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
ひさびさにこの言葉使ってみましたが懐かしいですね笑 でも私の青春時代の象徴でした。
「ワンレン・ボディコン」は定番スタイルでした。
ラガーマンかと思うような肩パットの入った洋服も当時のトレンドでしたから。
私は地方出身で、当時の私の街では数えるほどのスペースも狭いお店しかなく、でも中でも人気のお店は恒例のチークタイムがちょっと長め。そこに土曜日になると繰り出し、オールナイトしていました。
知らない男性から声をかけられ、寄り添ってチークを踊る。選抜からもれてしまった一緒に行った友人に申し訳ないような、でも、なんか女性としてうれしい気持ちもあったり、その逆もあってがっかりしたり、、、
もうワンレンなど主婦には邪魔なヘアスタイルですし、ぴったりした洋服など着れるわけがありませんが、自然についた脂肪の肩パットを見ながら、当時の余韻に浸ることにします。
タクシーがひどかった(60代・男性)
とにかくタクシーで不快な思いをしました。
繁華街でもないのにタクシー乗り場は大行列。
運転手はやたら横柄で「乗せてやっている」という意識がありあり。
返事をしないぐらいならまだしも、距離が近かったりすると露骨に舌打ち。
もちろんタメ口で客の方がペコペコ。
どっちが客か分かりませんがそれが当たり前でした。
油断しているととんでもない方向に遠回りしていることも普通にありました。
小銭が足りなくて5円玉を出したら受取拒否されたこともあります。
それでもちょっとしたことで、すぐタクシーを利用していたのだから、そういう時代だったんですね。
だけど嫌な思いはトラウマになって、今でもよほどのことがない限り、タクシーには絶対乗りません。
ちょっとバブルを感じる入社式の思い出(40代・女性)
それは新入社員として入社式に出席した時のことです。
当時は今のようにみんな黒いスーツを着ているわけではなく、思い思いの色や形のスーツで出席していました。
いい意味で言えば、個性的ですね。
その中でもひときわ目立つ女性がいました。
彼女は体のラインがバッチリわかるボディコンスーツに身を固め、ピンヒールを履いていました。
見ているこちらとしては少々危なっかしいと思いましたが。
入社式が終わり、会場を変えての昼食会が執り行われます。
会場までは少し歩かないといけませんでした。
そこで、彼女はヒールを側溝の蓋にひっかけてしまい、見事なまでに転んでしまいました。
足が傷だらけになりながらも、彼女は何事もなかったように歩き始めました。
ある種のプロ根性を見たかのようでした。
給料がたくさんもらえました(40代・女性)
まさにバブル全盛期に地元では名門と言われた短大を出て、大手都市銀行の100パーセント子会社であるショッピングクレジットの会社に就職しました。
1年目の冬のボーナスは、短大卒で36万円、高卒女子で30万円ほどでした。
3年目には、ボーナスだけで年間100万円を超えました。
私は、3年3か月で寿退社し、当時いわゆる「三高」(高学歴、高身長、高収入)をまあまあ満たしているかな?という夫と結婚しました。
当時銀行の定期預金の利率は7%でしたので、100万円が1年後には、107万円になりました。
ですので、そこそこお洒落して、友人とも旅行に行き、親孝行しても、3年ちょっとで500万近く貯めました。
私の場合は、結婚資金を親に頼らず自分で出し、残った貯金も少しでしたが、実家天国の友人たちは、この頃の貯金を金利で倍にし、旦那さんに内緒のへそくりにしています。
今のアラフィフ主婦は、結構お金持ってると思います。
バブル時代のクラブ事情(30代・女性)
バブル時代全盛期の頃、歌舞伎町のクラブに入り浸っていました。
当時から男性客のみの来店をお断りする店が多かったので、店の前でたむろっている男性に声をかけ、一緒に店に入り、お酒をごちそうになったりしていました。
当時は羽振りがよい男性が多かったので、お酒代・食事代だけでなく、お小遣いをくれる人も多かったですよ。
なので、1年くらいは自分のお金でご飯を食べたことはありませんでした。
バブル時代といっても、私はそこまでお給料がよくなかったので、すごく助かっていましたね。
私の友達も同じような生活をしていました。
中にはお金持ちの男性を捕まえて結婚した人もいます。
私のような生活をする女性は多かったみたいで、クラブの前はいつも若い男女でにぎわっていました。
あの頃(バブル期)は何もかもが羽振りが良かったですよね(60代・女性)
私がバブル期で思い出すのは、仕事後のアフター5ですね。
ほぼ毎週のように週末は繁華街へ繰り出し、会社のお金で何も気にせずに飲めや歌えやを繰り返していましたね。
私はそんなにお酒は飲まないのですが、それでも高級と言われるようなお酒をバンバン注文していたことは覚えています。
また帰りに関しても、基本的にはタクシー券が配布されていました。
なので電車に乗るということはあまりありませんでしたし、それ故に帰りの時間も気にせずに遊ぶことが出来ていましたね。
賞与の時期も本当にワクワクしたもので、当時は現金を封筒に入れて渡されていました。
そのため、誰がどのくらい貰ったのかが目視で分かるんですよね。
営業社員なんかは、インセンティブも含めてかなりの金額を貰っていたようで、封筒がはち切れんばかりになって、縦に置いて立たせていましたからね。
札束が立つのですから、その金額は推して知るべしでしょう。
うん、本当にあの頃は良かったですよ。今は……。
バブルなんて実感したことはほとんどありませんでした(50代・男性)
いわゆるバブルと言われた時代真っ盛りのころ、私はあるコンピューター関連の会社に就職しました。
人手不足だったのか同期は数百人という、超売り手市場だったと今にして思います。
しかし、世の中の狂乱振りとは裏腹に、その数年後当社を含め電気、コンピューター関連の会社は軒並み業績が悪化して赤字にあえいでいました。
とくに給与面が直撃を受け、仕事は山ほどあるのに残業代はカットされたり、ボーナスは出るとか出ないとか噂で持ちきりになってしまうという状況でした。
しかし、週末に街に飛び出せば周りはキラキラと光り輝いていてとても楽しい雰囲気に包まれた記憶があります。
一晩中ディスコで踊り、始発電車で帰る、そんな日々を過ごしていました。
大阪時代のバブル生活(50代・男性)
バブルというほどの派手さはありませんですが、そのバブル期に私は大阪で独身生活をしていました。
場所は船場にありましたが、仕事が終わると、毎日仕事が終わると違う女の子と、道頓堀にある当時ではまだ珍しかった20階建てのビルの最上階にあるレストランバーに行って食事をし、心斎橋に戻っておしゃれなバーでお酒を飲み、自宅のある新大阪までタクシーで帰っていました。
1日平均で3万円を、毎日のように使っていましたので、当然給料では足りなかったのですが、賞与が業績連動型で、20代の私には信じられないくらい出ていましたので、それで充当していました。
当時付き合っていた(毎日、日替わりだった)女のことたちとは結局結婚することもなく、バブル崩壊と同時に別れました。
コメント
コメント一覧 (3)
ファミコン漬けの毎日だった。
周りの小学生も同じくファミコン漬け、ファミコン中心に生活が動いていた。
親の商売がバブルのためうまく一いっていたからスーファミやファミコン、数おお君ソフトやファミコン専用のテレビ(私用)をすぐに買ってくれた。